MENU

安倍晋三(Shinzo Abe)の人物紹介

当ページのリンクには広告が含まれています。
目次

安倍晋三(Shinzo Abe)とは?

本サイトでは、「安倍晋三(Shinzo Abe)」元総理大臣の名スピーチ(名言)を紹介します。

安倍晋三は日本の政治家になります。父は元外相「晋太郎」、母方の祖父は元首相「岸信介」になります。父の死後、山口の地盤を継いで1993年衆議院議員に初当選。小泉政権時代の2003年に自由民主党幹事長などを歴任。北朝鮮問題への強硬姿勢などで頭角を現し、2006年に第2次世界大戦後最年少となる52歳で首相に就任。教育基本法を改正するなどしたが、翌年、参院選敗北の責任や健康問題から辞任。2012年には、総選挙に勝利して再び首相に就任。アベノミクスなどを推進したほか、政権末期には新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策にも取り組みました。首相在任期間は通算・連続とも歴代最長になります。

安倍晋三(Shinzo Abe)の経歴

安倍晋三(Shinzo Abe)は、1954年9月21日、毎日新聞の記者であった(後に外相となった)安倍晋太郎と妻洋子の次男として東京都に生まれます。弟の岸信夫(防衛相)は、養子に出されたため末子として育ちます。父方の祖父は衆議院議員の安倍寛、母方の祖父は後の首相岸信介で、大叔父には後の首相佐藤栄作がいる政治家一族となります。

学生時代

安倍晋三(Shinzo Abe)は、成蹊小学校、成蹊中学校・高等学校を経て、成蹊大学法学部政治学科を卒業しました。

小学4年生から5年生にかけての1964年から2年間は平沢勝栄が家庭教師についていました。高校でのクラブは地理研究部に所属し、高校卒業後、成蹊大学に進み、佐藤竺教授のゼミに所属して行政学を学びました。大学ではアーチェリー部に所属し、準レギュラーとなります。大学生の頃は人付き合いが良く、大人しく真面目だったといわれています。1977年には、渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通いました。また、1978年から1年間、南カリフォルニア大学に留学しています。在籍はしたものの学士の資格は得ていません。

秘書時代

1979年から、神戸製鋼所に3年間勤務した後、1982年から外務大臣に就任していた父の秘書官を務めます。1987年6月9日、森永製菓社長の松崎昭雄の長女で電通社員の昭恵と新高輪プリンスホテルで結婚式を挙げました。

衆議院議員

1991年、父晋太郎が急死しました。1993年に父の地盤を引き継ぎ、第40回衆議院議員総選挙に山口1区から出馬し初当選しました。当選後は、かつて父が会長を務めた清和政策研究会に所属します。1995年の自民党総裁選では小泉純一郎の推薦人になります。1999年、衆議院厚生委員会理事に就任しました。

内閣官房副長官 時代

派閥領袖の森喜朗首相が組閣した2000年の第2次森内閣で小泉純一郎の推薦を受け、内閣官房副長官に就任しました。第1次小泉内閣でも再任してます。

2002年、小泉首相の北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と金正日総書記との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と毅然とした対応で臨みました。拉致被害者5人の帰国は実現したものの、この日本人拉致問題は日本側の納得する形では決着せずに難航した。内閣官房参与の中山恭子と共に北朝鮮に対する経済制裁を主張し、拉致被害者を北朝鮮に一時帰国させる方針にも中山と共に頑強に反対しました。対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の姿勢は多くの支持を得たと言われています。

自由民主党幹事長 時代

2003年、小泉首相は幹事長として安倍を抜擢しました。当時、閣僚も党の要職も未経験であった安倍の幹事長就任は異例であり、「サプライズ人事」として注目を集めました。また、自民党は総幹分離の原則が長く続いており、総裁派閥幹事長は1979年の大平正芳総裁時代の斎藤邦吉幹事長以来24年ぶりとなりました。

幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」「氷代」(派閥の長が配下の者に配る活動資金)の廃止や、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行いました。

2004年夏の参議院選挙では、目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞任を示唆し、結果は49議席となり、しばらく現職に留まった後で辞任しました。後任幹事長の武部勤の強い要請を受ける形で党幹事長代理に就任した。幹事長経験者の幹事長代理就任も異例となります。また、党改革推進本部長にも就任しました。

内閣官房長官 時代

2005年、第3次小泉改造内閣で内閣官房長官として初入閣します。2006年には、総裁選への出馬を表明。憲法改正や教育改革、庶民増税を極力控えた財政健全化、小泉政権の聖域なき構造改革に引き続き取り組む方針を示しました。

1度目の内閣総理大臣就任

2006年、小泉首相の任期満了に伴う総裁選で自由民主党総裁に選出され、内閣総理大臣に指名されます。戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣になります。

第1次安倍内閣

就任表明では、国家像として「美しい国」を提示しました。安倍首相は、小泉前首相の靖国参拝問題のために途絶えていた中国、韓国への訪問を表明し、2006年10月には就任後の初外遊先となった北京で胡錦濤国家主席と会談し、翌日には、盧武鉉大統領と会談すべくソウルに入り、小泉政権下で冷却化していた日中・日韓関係の改善を目指しました。

北朝鮮が核実験を実施したことに対しては「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」として非難声明を発するとともに、国連の対北制裁決議である国際連合安全保障理事会決議を可決させ、個別でより厳しい経済制裁措置も実施しました。

2006年、教育基本法改正と防衛庁の省昇格を実現しました。一方で、安倍首相が任命した本間正明税制会長が公務員宿舎への入居と愛人問題、佐田玄一郎内閣府特命担当大臣兼行政改革担当大臣が架空事務所費計問題でそれぞれ辞任しました。この後、閣内でスキャンダルが続きました。

2007年、8月6日の広島平和記念式典に行く前日から、胃と腸に痛みを感じ、食欲の衰えを感じるようになりました。そして、8月19日から8月25日のインドネシア・インド・マレーシア3ヶ国訪問後は下痢が止まらなくなり、症状は次第に悪化し始めました。当時の慶應義塾大学病院の主治医によると、機能性胃腸障害という検査結果であったといいました。

8月27日に内閣改造、党役員人事に着手しました。ところが、組閣直後から再び閣僚の不祥事が続き、求心力を失って行きます。

2007年9月12日、安倍首相は「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を急遽行いました。また、理由についてはテロとの戦いを継続する上では自ら辞任するべきと判断したとした[。これにより同日予定されていた衆議院本会議の代表質問は中止となった。

翌日(9月13日)、慶應義塾大学病院に緊急入院となりました。検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発表しました。安倍内閣メールマガジンは、9月20日配信分において「国家・国民のためには、今身を引くことが最善と判断した」とメッセージを配信し終了しました。

9月25日、第1次安倍改造内閣最後の閣議に出席し、その後国会へ登院して、衆議院本会議での首班指名選挙にも出席しました。第1次安倍改造内閣最後の閣議で、閣僚全員の辞表を取りまとめて内閣総辞職しました。安倍は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べました。26日には皇居で行われた自民党総裁福田康夫首相の親任式に出席し、正式に内閣総理大臣を退任し再び病院へと戻りました。

なお、安倍首相は、2011年に掲載された『週刊現代』へのインタビューで、特定疾患である「潰瘍性大腸炎」であったことを明かしています。

内閣総理大臣退任後

2007年9月27日、慶應義塾大学病院から仮退院し、私邸で自宅療養に入りました。

2007年末、『産経新聞』のインタビューにて「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」 と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」 と答えています。

2008年、安倍は勉強会「クールアース50懇話会」を立ち上げました。設立総会において、安倍は「北海道洞爺湖サミットを成功させるのは私の責任」 と語り、同懇話会の座長に就任しました。

2012年、9月26日に行われた自民党総裁選挙で総裁に選出されました。一度辞任した総裁が間を挟んで再選されるのは自民党史上初となりました。

2度目の内閣総理大臣就任

2012年12月16日の衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、自民党は政権与党に復帰しました。同年12月26日、安倍が第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足しました。1度辞任した内閣総理大臣の再就任は、戦後では吉田茂以来2人目になります。吉田は、初任時は大日本帝国憲法下での任命であるため、日本国憲法下では安倍が初となります。

首相再登板後は、デフレ経済を克服するためにインフレターゲットを設定した上で、日本銀行法改正も視野に入れた大胆な金融緩和措置を講じ、多年に渡って続くデフレからの脱却に強い意欲を示しました。大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略を三本の矢と称した一連の経済対策は、アベノミクスと称されます。「アベノミクス」は、2013年新語・流行語大賞のトップテンに入賞し、安倍が受賞しました。

参議院議員選挙(2013年)での勝利

第1次安倍政権時に大敗を喫した参議院議員通常選挙以降、参議院では政権与党が過半数を下回るねじれ国会が続いていました(2009年の衆議院議員総選挙から2010年の参議院議員通常選挙までの期間を除く)。2013年7月21日の参議院議員通常選挙で、政権与党の自民・公明両党が合わせて半数を超える議席を獲得し、「ねじれ」を解消しました。

2020年東京オリンピック招致

安倍は2012年12月の首相就任以降、2020年夏季オリンピックの東京招致委員会の最高顧問に就任しました。

参議院議員選挙(2016年)での勝利

任期満了に伴う2016年7月10日の参議院議員通常選挙では、前回を上回る議席を獲得しました。この結果を受けて、アベノミクスが信任を得たものと主張しました。

衆議院議員総選挙(2017年)での勝利

選挙前と同じ284議席を獲得し、安倍自民党が大勝しました。

通算組閣回数・首相在職日数

2018年10月2日に内閣改造を行い、第4次安倍第1次改造内閣が発足しました。これにより通算組閣回数は10回となり、それまで最多だった大叔父の佐藤栄作(9回)を抜き歴代最多となります。さらに2019年9月11日にも内閣改造を行い、第4次安倍第2次改造内閣が発足しましたえ。これにより通算組閣回数は11回となりました。

2019年11月20日、首相通算在職日数が2887日となり、それまで最長だった桂太郎(2886日)を抜き歴代最長となり、さらに2020年8月24日、連続在職日数が2799日となり、それまで最長だった大叔父の佐藤栄作(2798日)を抜き歴代最長となりました。

二度目の内閣総理大臣辞任

2020年8月28日、内閣総理大臣の職を辞する意向を固めたと複数のメディアが報じ、その後、臨時閣議において、辞任する意向であることを表明しました。

首相官邸で行われた会見では、「持病の潰瘍性大腸炎が再発し、国民の皆様の負託に自信を持って応えられる状態でなくなった以上、総理大臣の地位にあり続けるべきではない」として正式に辞意を表明し、「様々な政策が実現途上にあり、コロナ禍の中、職を辞することについて、国民の皆様に、心より、心より、お詫び申し上げる」と謝罪しました。

2020年9月16日の閣議において、安倍内閣は総辞職しました。その後、菅が国会の内閣総理大臣指名選挙、皇居での任命式を経て首相に就任し菅義偉内閣が成立したことを受けて、安倍は内閣総理大臣を退任しました。「安倍一強」と呼ばれた首相を中心とする官邸支配的な七年間は、連続在職日数は2822日、通算在職日数は3188日と、いずれも歴代最長を記録しました。

二度目の内閣総理大臣退任後

2021年10月31日、衆議院議員総選挙で勝ち10選目の当選となります。

2021年11月11日、所属する細田派会長の細田博之が衆議院議長に就任したことに伴い派閥に復帰し、後任会長に就任しました。

演説中の銃撃事件

2022年7月8日11時31分ごろ、参議院議員通常選挙のための街頭演説を奈良県奈良市の近鉄大和西大寺駅前付近にて行っていた際に、犯人自作の銃で背後から2発撃たれ、その内2発目が命中し心肺停止状態になります。銃撃した当時41歳の奈良市在住の山上徹也容疑者は、奈良県警察の警察官によって取り押さえられ、11時42分に殺人未遂容疑で現行犯逮捕されました。その後、奈良県立医科大学附属病院に搬送されて蘇生措置を受けたが、17時3分、銃撃による失血死のため死亡が確認されました。67歳没。

日本国政府は死没日付をもって従一位に叙し、大勲位菊花章頸飾並びに大勲位菊花大綬章の追贈を決定しました。

葬儀は妻・昭恵を喪主とし、関係者による通夜が同月11日、告別式は同月12日に東京都港区の増上寺で執り行われ、その後桐ヶ谷斎場で荼毘に付されました。後日、東京都内と地元の山口県でお別れの会が、9月に戦後では天皇・皇后を除いて吉田茂以来2人目となる国葬[が執り行われる予定になります。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次