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スティーブ・ジョブズ (Steve Jobs)の人物紹介

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本サイトでは、「スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)」の名スピーチ(名言)を紹介します。そこで、今回は、Appleを創業し、mac、iTunes、iPod、iPhone、iPad等のテクノロジーをこの世に生み出した「スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)」の人生を紹介していきます。

スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)は、1955年2月24日、シリア人政治学者の父と米国人大学院生の母の間に生まれた。ジョブズは、生後すぐに養子に出され、養父母によって育てられた。

1972年、ジョブズは、オレゴン州のリード大学へ進学しました。リード大学は、学費が高額な私立大学であり、両親の金銭的な負担は大きかったが、ジョブズは他大学の受験を断固拒否しました。大学時代のジョブズは、裸足で校内を歩き、一時は風呂にも入らない時期がありました。ジョブズは大学に半年間通いましたが、興味のない必修科目を履修することを嫌がり、半年で退学しました。

1976年、ジョブズが少年時代友人の紹介で出会ったウォズニアックが、「AppleⅠ」と命名されるマイクロコンピュータを独力で設計した。ジョブズとウォズニアックは、自分たちで「AppleⅠ」を販売する新事業を立ち上げることを決意し、初代Apple Computerを創業しました。

ジョブズは、事業拡大を望みました。そのため、多額の融資が必要となります。そこで、ジョブズは、個人投資家として財を成していたマイク・マークラと出会いました。マイクは、ジョブズの野心とウォズニアックの技術的才能に心を動かされ、Apple Computerに加わりました。マークラは自分の個人的資産から、9万2,000ドルをApple Computerに投資し、米国の銀行であるバンク・オブ・アメリカから25万ドルもの信用供与を確保しました。投資の見返りとして、マークラはアップルの株式の3分の1を受け取った

1977年1月3日、ジョブズは、マークラの助けを得て新法人 Apple Computerを設立しました。マークラは、会社の成長に経験豊富な経営者が不可欠であると考え、半導体製造業のナショナル セミコンダクターから、マイケル・スコットを引き抜き、アップルの初代社長兼CEOに任命しました。なお、その時ジョブズの肩書きは、事業統括担当副社長になりました。

1977年4月16 – 17日に開催されたコンピュータ産業見本市「ウェスト・コースト・コンピュータ・フェア」にて、Apple Iの後継機種である「Apple Ⅱ」が発表された。その後、希望小売価格1,298ドルで発売された。「Apple I」ではむき出しの基板(マザーボード)として販売されたが、Apple IIでは基板やキーボード、電源装置などが一体化され、テレビ等の外部ディスプレイを接続すれば、すぐにコンピュータとして利用でき、ディスプレイにカラー表示することも可能とした。なお、Apple IIは、1980年代は約10万台、1984年には約200万台を超える売り上げ、莫大な利益をAppleにもたらしました。

1981年、IBMは、IBM PCを発売し、PC市場へ参入しました。そのため、次第にApple IIはシェアを奪われ、新しい製品が待望されるようになってきました。

1978年、Apple IIの次世代PCとして、Lisa(リサ)・プロジェクトが立ち上げらました。

1979年、ゼロックスからの出資を受け入れる交換条件として、ジョブズの要請によりゼロックス管轄の研究所であったパロアルト研究所の見学が行われました。その時、ビットマップディスプレイとマウスを前提とし、GUIを実現したことに、ジョブズは大きな衝撃を受けました。そこで、ジョブズは、開発中のLisaに、同じ機能を持たせることを考え、自らプロジェクトを率いていくことになりました。

1979年、アップルに入社したジェフ・ラスキンは、Apple IIが一般向けには複雑と考えていました。そこで、1979年に、Macintoshプロジェクトを開始しました。このMacintoshは、誰でも簡単に扱えるノート代わりのコンピュータを目指しました。

ジョブズは、会社内での独断専行の立ち居振る舞いから、社長のスコットにより、Lisaプロジェクトのメンバーから外されてしまいます。社内で行き場を失ったジョブズは、1981年、Macintoshプロジェクトに参画を突如宣言しました。Macintoshプロジェクトは、少人数でのプロジェクトといこうこともあり、ジョブズを迎え入れました。そして、ハードをジョブズ、ソフトをラスキンが担当することとなりました。

しかし、Lisaを上回るものにしようとするジョブズは、ソフトに関しても口を出し始め、ラスキンと対立し、1982年3月、ラスキンはAppleを去りました。

ジョブズは、Macintoshには、シンプルであり、美しさが必要だと考えました。そのため、基板パターンが美しくないという理由で、設計案を幾度となく却下しました。また、同様の理由で拡張スロットの採用を拒否したりしました。そのため、手間を惜しまなかったがゆえに、開発は難航し、1984年1月にMacintoshが販売されました。

1984年後半、ジョブズは、Macintoshの需要予測を大幅に誤り、Appleは過剰在庫で、初めての赤字を計上しました。業績の悪化で、Appleは、従業員の5分の1の人員削減を余儀なくされました。ジョブズがAppleの経営を混乱させていると考えられるようになり、全ての業務から解任されました。

ジョブズは、理想のコンピュータ像を求めて、大学を歩いて回った際、スタンフォード大学のノーベル賞の受賞者の生物学者ポール・バーグと一緒に昼食を取った。その時、DNA組み替え実験の難しさの話題が上がった。ジョブズは、コンピュータでのシミュレーション、高等教育のためのコンピュータ構想を考えました。1985年、その構想を実現すべく、新しい会社NeXTを創業しました。

1986年、ジョブズは、ルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1,000万ドルで買収し、ピクサーと名づけ、そのCEOの座に就きました。なお、1991年、ピクサーは、ディズニーにCGアニメーション映画作成の売り込みを行い、劇場用作品の契約を結びました。1995年にトイ・ストーリーを公開し、大成功をおさめました。その直後、ピクサーは株式を上場し、ジョブズは多額の資産を手に入れました。

2006年、ディズニーはピクサーを買収し、ディズニーの完全子会社となりました。ジョブズは、ディズニーの個人筆頭株主になり、ディズニーの役員に就任しました。

1995年末ごろから、Windowsの台頭もあり、Appleの経営が傾向き始める。また、ジョブズは、1996年の11月ごろ、Appleが自社内でのOS開発が暗礁に乗り上げ、次期OSの基本技術を外部に求めているという話を聞き、NEXT社製のNEXTSTEPを売り込み行う。

1997年、Appleは、NeXT買収を完了させた。そして、ジョブズもAppleに復帰した。

1998年、iMacを市場に投入した。それまでの「アイボリーの箱」というMacの印象から大きく離れたiMacシリーズは大ヒットとなり、「トランスルーセント(スケルトン)」はあらゆる分野に影響を及ぼした。この大ヒットは、Appleの復活を人々に強く印象づけました。

2001年、NeXTとアップルの技術を融合させ、オープンソース由来の技術を積極的に取り込んだMac OS Xを発売しました。

2001年、iTunesとiPodによって音楽事業に参入しました。、楽事業をPCに並ぶAppleの事業の柱にしました。数千曲の音楽データを持ち歩き、手軽に楽曲を選び視聴できるiPodは、世界中に驚きを与えました。

2007年、Macworld 初日の基調講演にて、ジョブズがiPhoneを発表しました。iPhoneは、スマートフォンを再定義する製品となり、ジョブズがCEOを退任する2011年までに、携帯電話(スマートフォン)事業は、Appleの総売上高の5割を占めるまでに成長しました。

2003年、膵臓癌と診断されたが、幸いにも治療可能な症例であった。周囲は、ジョブズにすぐに手術をうけるように忠告したが、東洋文化を尊重していたジョブズは、西洋的な医術を拒否し、民間療法などを用いて完治を図ろうとしていたといわれる。そのため、医学的治療が遅れ、9か月後の検査で癌が大きくなっていることがわかり、摘出手術を受け療養後復帰しました。

2010年、iPad発表されました。iPhoneの機能をベースに、画面を雑誌サイズにし、世界に衝撃を与えました。iPadの出現により、電子書籍ビジネスが活性化することになり、Kindleなどの競合を生み出しました。またiPadは、ビジネス用途としても利用が拡大され、その後、2012年にはiPad miniがリリースされました。

肝臓移植後一旦体調は回復し、2010年5月にはお忍びで京都に家族旅行に出かけるなどしていたが、2010年11月以降ふたたび体調が悪化、2011年に入り癌が再発した。なお、公式発表で病気を理由に休職することが発表された。

2011年10月5日、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により、妻や親族に看取られながら、自宅で56年の生涯を閉じた。

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