福岡に旅行で訪れました。ここでは、「九州国立博物館(Kyushu National Museum)」に訪れましたので、その時の様子を紹介します。なお、今回のサイトは前回の続きになります。以下サイトも参照して見て下さい!!!!
九州国立博物館(Kyushu National Museum)とは?
九州国立博物館は、東京、奈良、京都に次ぐ4番目の国立博物館として、2005年10月16日に福岡県の太宰府の地に開館しました。
大宰府は、「遠の朝廷」とよばれた日本古代史上の一大舞台で、九州地方を統括する地であるとともに、世界との交流の地でもありました。その太宰府の歴史的な環境の中で、地元太宰府をはじめ地域の人々による長年にわたる熱心な誘致活動が結び付いての開館となりました。
美術館の建物は、160m×80mの長方形で、蒲鉾型という個性的なフォルムを成しています。国際競技の可能なサッカー場が一面すっぽり入るほどの迫力のある建物であり、菊竹清訓建築設計事務所と久米設計の共同設計によるものになります。
九州国立博物館の館活動の基本は、文化財資料を展示するとともに、作品の保存と活用になります。展示については、常設展示となる「文化交流展示室」と企画展展示の「特別展示室」にて行います。「文化交流展示室」では、季節に応じた展示と作品保護の観点から月に30〜50点の文化財の展示替えを行いながら、常時800〜900点を展示します。また、「特別展示室」では、年に4回から5回の特別展を開催しています。
The Kyushu National Museum opened on October 16, 2005 in Dazaifu near Fukuoka—the first new national museum in Japan in over 100 years, and the first to elevate the focus on history over art.The distinct modern impression created by the architectural facade is mirrored in the Museum’s use of technological innovations which are put to good in making the museum’s collections accessible to the public. For example, the museum’s extremely high resolution video system, with the latest image processing and color management software, serves both in documenting the objects in the museum’s collection and also in expanding access beyond the limits of a large, but finite exhibition space.
The striking wood and glass building in the hills, it hosts important collections of Japanese artifacts, particularly ceramics, related to the history of Kyūshū.
It hosts temporary exhibitions on the third floor, while the permanent collections are on the fourth floor. The collections cover the history of Kyūshū from prehistory to the Meiji era with particular emphasis on the rich history of cultural exchange between Kyūshū and neighboring China and Korea.
The museum was designed by Kiyonori Kikutake.
九州国立博物館のアクセス
- 西鉄太宰府線 太宰府駅より徒歩10分
- 西鉄バス 太宰府駅バス停より徒歩10分
九州国立博物館の様子
虹のトンネル
縄文人、海へ (3万5千年前~紀元前4世紀)
氷河期であった旧石器時代では、人々は大型動物を狩り、植物を採集し、遊動生活をおくっていました。縄文時代には気候が温暖化し、森にはたくさんの木の実がなり、小型動物が現れ、海は豊かな漁場となりました。人々は土器を作って食料を煮炊きし、定住生活をおくり、飾り、祈り、弔いも行いました。
稲づくりから 国づくり(紀元前4世紀 ~ 紀元後7世紀)
弥生時代、大陸から米作りや金属器が九州に伝わりました。農作業を共同で行なう中で人々をまとめる人が現れ、やがて地域を治める王となりました。古墳時代には、列島の大半を治める大王が現れました。大陸からは多くの人々が渡来し、乗馬の文化や須恵器製作の技術を伝えました。九州では石人や装飾壁画によって首長の死後の安寧を祈る独自の古墳文化が展開されました。
遣唐使の時代(7世紀 ~ 12世紀)
奈良時代の日本は唐の都長安に遣唐使を送り、先進的な国家制度や仏教を学び、国際色豊かな品々を持ち帰りました。大宰府は、アジアとの外交・貿易の拠点として繫栄しました。平安時代には、渡来の文化を基盤に、「仮名」に代表されるような日本独自の新しい文化が生まれた。仏教でも密教や極楽往生を願う信仰が流行し、未来に経典を残すために経塚が盛んに造られました。
アジアの海は日々これ交易(12世紀 ~ 16世紀)
武士が台頭した鎌倉時代から室町時代にかけて、アジア諸国の貿易商人たちは大海原をさかんに往来しました。京都や博多などの都市をはじめ、各地で商業が発達しました。覇権を争った武士たちのあいだでは、禅僧が伝えた水墨画や茶などが富や権力の象徴として流行し、それはやがて日本の伝統文化を代表する茶の湯(茶道)へと発展しました。
丸くなった地球近づく西洋(16世紀 ~ 19世紀)
室町時代の終わりから安土桃山時代は、ヨーロッパの大航海時代にあたります。アジアに進出してきたヨーロッパ人との交流を通じて、鉄砲やキリスト教が日本にもたらされ、日本からは銀や工芸品などが海を渡りました。戦乱が終わり社会が安定した江戸時代、日本は長崎や対馬、琉球、蝦夷地を通じて世界とつながりました。日本の磁器や漆器が世界を魅了した一方、国内でも世界への知識は広がり、蘭学など多彩な文化が育まれ、やがて訪れる近代への礎となりました。
范道生
范道生(1635~1670)は、万治3年(1660)に長崎に渡来した福建省泉州府安平出身の仏師です。来日前の事績は不明ですが、長崎では唐寺の福済寺と興福寺の仏像や道教神像を造っていました。1663年、日本黄檗宗の開祖・隠元禅師から京都宇治の萬福寺に招かれ、約1年間、その仏像造りを担当しました。
なかでも大げさな表情とポーズが特徴の十八羅漢像は、范道生が彫刻し、京都仏師が装飾を仕上げた、日中仏師合作の群像です。萬福寺では多くの僧と親交を深め、羅漢図などの絵画作品も残しています。萬福寺の初期整備が一段落すると、広南国(いまのベトナム中部)に向かうために日本を一旦離れました。そして萬福寺の造像を再開するため寛文10年に再び渡航しますが、今度は滞留が認められず、同じ船で帰国するよう命ぜられていたなか、病没しました。わずか36歳でした。 日本での活動期間は6年弱でしたが、萬福寺に遺した仏像を通して日本黄檗宗の開立を広く世に示すことに貢献しました。また、同時代の一部の京都仏師にも影響を与え、范道生作品の形式と作風にならう新しい様式が生み出されました。
おまけ
福岡旅行として、世界一の釈迦涅槃像の「南蔵院」にも訪れています。ぜひ下記リンク先の解説サイトを参照して見て下さい!!!!
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